『年貢—せめぎ合う江戸時代の領主と百姓』 渡辺尚志 2026年7月 中央公論社
日本とは瑞穂の国である。弥生時代に米作りが始まり、千数百年を経た今においても、米無くして日本人の生活は語れない。米農政は常に政治問題に繋がり、庶民は米小売価格の上がり下がりに一喜一憂する。
さて、政府にとって徴税は政治をつかさどる上での前提となる。
古代律令制の下で初めて土地制度、つまり班田収授法が確立した。国家が人民に土地を与え、そこから得られる作物(米)を現物で国家に納めることで徴税とした。私有地(荘園)の開拓が進んだことで、律令制度は崩壊した。やがて武士が政治を握り、戦国時代を経て徳川の封建制度が確立した。ざっと1000年の間、政治体制は時代とともに変わって行ったが、納税の柱は米であり続けた。明治の地租改正に至るまで、米をもって徴税とする仕組みは維持された。
年貢をお上に納める細かな仕組みが確立したのは江戸時代である。そもそも、民百姓がどれだけの土地を持っており、そこからどれだけの米が取れるのかを計り、収穫した米をどれだけ召し上げるのかを決め、そして召し上げた米をどのように集荷し、輸送し、最終的に検収するまでの工程について各段階の責任の所在を明確にしなければならない。それは、かなり複雑な制度設計であり、現代の税制度に類似する。
取る側(領主)はできる限り徴収したい、一方、取られる側(百姓)はできる限り負担を下げたい。両者はせめぎ合う。現代人の目には、百姓とは領主である武士階級に虐げられていた存在と映るが、必ずしもそうではない。追い詰められた百姓は一揆や打ち壊しという形で反旗を翻すこともある。領主とて、百姓を追い詰めてしまっては元も子もない。
年貢の決め方、年貢を納めるにあたって発生した様々な騒動、そして民百姓を支配する幕府や藩がその騒動をどのように裁いたのか、古文書に残る記録を基に事例分析する。社会学の視点で江戸時代の年貢の仕組みを見るとなかなか面白い。