熊本・天草の旅 (2026/6/30)

 

 

今回は熊本と天草を旅することにした。基本的にはお城のあるところ、そして歴史的遺産の残されている場所が選択肢となる。5日間ほどを使い、熊本城を皮切りに、明治日本の産業革命遺産の一つである三池炭鉱・万田坑、そして世界文化遺産となった天草の崎津集落を廻った。

 

熊本城

 

熊本城は熊本にとって代表的な観光資源であり、加藤清正が築城した天下の名城として知られる。2026年に起きた熊本地震では大規模な損傷を受けた。現在も復旧工事が進むが、傷跡は至る所に残っている。完全に復旧するのは2052年度、つまり今後26年にわたって工事が続く。天守は2021年に復旧したが、櫓や本丸御殿はまだ内部公開できる状況ではない。

 

天守閣は西南戦争で焼失し、現在の建物は昭和35年(1960年)に鉄骨・鉄筋コンクリート造で再建されたものである。外観は威風堂々、大天守と小天守が並ぶ美しい城である。内部はいわゆる博物館であり、様々な展示を通して熊本の歴史を上手く説明している。

 

城の石垣は下から上に順次勾配がきつくなり、最上部でほぼ垂直になる。この武者返しと呼ばれる石積みは、慶長の役/1の際に朝鮮に築かれ、難攻不落と呼ばれた蔚山倭城の築城技術を元にしたものである。現状では崩落したままの所があちらこちらに残り、痛々しい。

 

右にあるのは小天守

手前の石垣は仮工事で更なる崩壊を止めている。

闇り通路(くらがりつうろ)

 

 

三池炭鉱・万田坑

 

黒いダイヤと呼ばれた石炭は、日本の近代化・産業革命を支えた。石油がエネルギーの主役となるまで、石炭は各地で採掘が行われ、石炭産業は大いに栄えた。

 

しかし、1960年代のエネルギー革命により、日本の石炭産業は急速に衰退する。石油にエネルギーの主役を奪われただけでなく、もはや日本の坑内掘りは、大規模に露天掘りされる海外炭に比べ生産性、採掘コスト、そして採掘事故の危険性/2の点で圧倒的に劣る存在となった。産業としての優位性は完全に失われた。

 

万田抗の設備を見れば分かるように、そこに残されているものは明治、つまり100年前の技術である。それでも失業問題と構造変革に対する抵抗があり、政治的に炭鉱は延命が図られた。三井炭坑が最終的に閉山となったのは1997年であったが、この設備を見る限り、よく延命できたものだと感じる。

 

竪坑櫓や巻揚機建屋

巻揚機

三池炭鉱専用鉄道で使った炭鉱電車。

 

天草の崎津集落

 

天草の﨑津集落は、江戸時代にキリスト教が禁止された中で、仏教や神道と共存し、漁村特有の信仰形態を継続した。踏み絵で知られるように隠れキリシタンは激しく幕府の弾圧を受けたが、それでも明治になるまで潜伏し、その信仰は継続した。これは世界的にも希有な事例である。

 

崎津集落に行くのであれば、先に天草キリシタン館、天草コレジヨ館、天草ロザリオ館を訪ね、隠れキリシタンの歴史と背景を理解することをお勧めする。私が崎津を訪れた日は、たまたま台風が接近中で、これら三つの展示館は閉館であった。翌日、天草キリシタン館を訪れたものの、旅程の都合とはいえ、順番を入れ換えたことは残念であった。

 

崎津集落は小さな漁村で、そこにある崎津教会は周りの風景に溶け込む。まさに絵になる。集落には穏やかな生活があり、人なつっこい野良猫がいる。ベンチで昼寝をしたり、人を見て足元までやって来てスリスリしたりする姿が可愛い。

 

ノンビリ昼寝の野良猫さん

崎津教会

﨑津集落に隣接する大江天主堂

 

 

 

 

 

/1     1597年から1598年にかけて、豊臣秀吉が明(中国)の征服を目指して朝鮮に出兵した戦争。

/2     三池炭鉱では、1963年(昭和38年)の炭塵爆発と、その後に充満した一酸化炭素により、458人が死亡、839人が急性一酸化炭素中毒となる大惨事が起きた。その後も1984年(昭和59年)の有明鉱火災事故(死者83名)など、幾度かの悲惨な事故が発生した。

 

 

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